7月に刊行された堀畑裕之「マトフ(MATOHU)」デザイナーによるエッセイ集「言葉の服 おしゃれと気づきの哲学」の刊行記念イベント「日本の眼(美意識)を生活にどう活かすか?」が代官山蔦屋書店で開催された。
イベントには堀畑デザイナーと、民藝研究などを専門とする哲学者の鞍田崇・明治大学理工学部准教授が登壇。同志社大学大学院哲学専攻修士課程を修了した堀畑デザイナーは、哲学的な視点をどう結びつけて服作りに取り組んでいるのか。また、民藝を専門とする研究者から「マトフ」の服作りはどのように見えているのかを知りたくイベントに参加した。
トーク前半では、「マトフ」が2010年秋冬から18年秋冬までの17のコレクションでテーマとしてきた“日本の眼”シリーズから4シーズンを取り上げて解説。各テーマのモチーフやアイテムを堀畑デザイナーが紹介しつつ、鞍田准教授がそれぞれの言葉の語源やそれにまつわるエピソードを挿入しながら、そこから得られる美意識を暮らしに生かす方法が語られた。
この“日本の眼”という言葉は民藝運動の主導者である柳宗悦による同名評論文から取ったという。「近代化で失われた美意識とは何か?という柳の問題意識を継承しつつ、文化が均質化したグローバル社会における日本独自の美意識とは何か?という問いを加えてコレクションを発表してきた」という言葉から、“日本の美意識が通底する新しい服の創造”をコンセプトに掲げる「マトフ」の独自性を感じた。
「風土に根差した美意識を客観的に見るだけではなく、“自分ごと”として新しい見方を身につけるということをしたい。日本人は日本の美意識に対してほとんど外国人みたいなものです。ほぼ完全に西洋化の中にあるので、それを今から変えることはできないですけれども、せめて美意識を変えていくことはできるんじゃないかなと思っています」(堀畑)。
「マトフ」2020年春夏コレクションのテーマは“藍の源流”。19年春夏から風土に根差したものづくりに着目した“手のひらの旅”というシリーズを始めている。今シーズンでは日本古来の天然染料である藍に注目していた
ここで印象的だったのは、“ふきよせ”のモチーフの一例として紹介した人間国宝である染織家の志村ふくみ氏に関する話題。鞍田准教授は過去に志村氏と共に登壇したイベントを回想する。
「ふくみさんは『作ることは汚すことです。もともと自然にあるものはそのままの姿で美しいはずなのに、人が手を加えるということは汚すことなんだと自分は常々思っている』と言ったんです。天然素材で草木染めをされている方が自分の仕事を否定的な言質で語られるとは思ってもいなかった。謙虚に自然に向かっている姿勢があることを思い知らされてグサリときました」(鞍田)。
たとえ天然素材を使っているとしても、ものを作るということは環境になんらかの影響をもたらす――本題から逸れた余談の場面ではあったのだが、昨今話題となるサステイナビリティーの考えにも通ずる含蓄ある話に思えた。
「“日本の眼”とは遠くの完璧な美からではなく、身近な自然や生き方の中に美しさの水源を見つけることです。それは日本人にしか分からないというわけではなく、日常性を土台にしているからこそ国境や人種を超えて分かり合える可能性があるのではないかと考えています」(堀畑)。
鞍田准教授は「マトフ」の姿勢を「日本独自の地域性や個別性というフィルターを通して普遍的なものを追求している」と評価し、民藝に通じる価値観を見出したようだ。
着物を着たときの洋服とは違う身体感覚に驚き、その経験をきっかけに日本のアイディンティティーへの探求心が芽生えて「マトフ」を設立することになったと話す堀畑デザイナー。京都で着物を着て楽しむ外国人旅行客を例に、地域の風土から生まれる衣服を着ることで、身体的に他の文化や思想を分かりあうことができるのではと主張する。
さらに発展してこう話す――「世界平和は服でできるんじゃないか」。
「服を着るという体を通したコミュニケーションから、すこしの『いいな』がちょっとずつでも広がれば、その人個人の中だけでも違う意識が出てくるんじゃないかなと思いますね。壊れかかっている世界の調和みたいなものに、本当にすこしかもしれないけれども、なにか貢献できることがあるんじゃないか――そういう気持ちで服を作っています」。堀畑デザイナーが自身の服作りへの壮大な思いを語り、トークイベントは終了した。
イベント終了後に堀畑デザイナーに書いていただいたサイン。筆致が優しい
一度立ち止まって、慣れ親しんだ身の回りの世界を丁寧に見渡すこと。大きな主語に依ることも、ありものの美辞麗句を借りることもせず、自分なりの言葉を紡いでみること。そのような姿勢があれば、堀畑デザイナーが言うように世界平和は実現できるのかもしれない。
終始平易な言葉を使っていた2人の議論は、衣服という日常にありふれたものから世界を語るところまで発展した。哲学は単にアカデミックな場にのみ存在しているわけではなく、日常生活の中から始めることができるものだと感じられたイベントだった。
「哲学とは、ある天才の思想でも学説でもなく、悟りや人生論でもない。私たちが日々のささいなことに驚き、問いに気づくことだ。そして、それを自分なりの言葉にしてみることであり、そのプロセスを無償で愛することなのだ」(「言葉の服」P.171)。